
執務室全体が夕焼け色に染まる時間帯。そこには静かに筆を走らせる二つの音と、仔猫に付いている鈴の音だけが響いていた。
しばらくして筆を置く音がすると、仔猫のシロは一人遊んでいた鞠から離れる。そして身体中の固まった筋肉をほぐすかのように伸びをするその人物の足元へ行くと、見上げて一声ミィと鳴いた。筆を置いた本人ー…松本はニコリと笑いシロを抱き上げ、立ち上がった。
「やっっと終わりですねー!」
「あぁ、お疲れさん。いつもこう真面目だと助かるんだがな」
「いやですね、私はいつも真面目じゃないですか!」
シロを抱き、頭を撫でながらケタケタ笑う副官。ここ数日、十番隊にはまるで嵐のように仕事が舞い込み、普段はふらふらしている松本も流石に精を出して処理していた。お陰で仕事は片付き、今晩は久しぶりに我が家の布団で眠れそうだ。
「さ、今日はもう上がりましょう!」
「そうだな。俺もこれが終われば帰るから、お前は先に上がれ」
そう言って机上にある残り数枚の書類を指差す。松本は一言はーい、というとシロを下ろし、帰り支度を始めた。
どのくらいたったか、俺は最後の書類に署名し終えて伸びをする。松本は気付かないうちに帰ったようで、その姿は執務室にはなかった。疲れた…そう思った時、ふとの姿が思い浮かんだ。あのオレンジ頭にもうひと月以上会っていない。久し振りに行くか。そう思いシロを抱き上げると、執務室の扉を開けた。
「?!」
そこにいたのは何やら袋を手にしている松本。てっきり帰ったと思っていた彼女がいて、少なからず驚いた。
「おまっ、帰ったんじゃ…?!」
「やだー、私隊長に挨拶もせず帰る女じゃないですよ!」
ちょっと買い物に出てたんです!そういうと袋を持ち上げ、笑顔を浮かべた。彼女が何を買ったのかわからないが、今ある笑顔の裏には何かしらの企みがあるのを察し、俺は無視してその場を離れることにした。松本はその後ろをついてくる。
「たいちょー、私ここんとこずっと頑張ってたので、ご褒美が欲しいんです」
「…なんもねーぞ」
「いやいや、隊長から物を貰おうだなんて思ってませんよ!ただ…」
そう言葉を切る松本。俺は足を止め振り返ると、自分よりも幾分背の高い部下を見上げた。すると彼女はニッコリと笑い、口を開いた。彼女の言葉に、俺の眉間のシワが深くなったのは言うまでもない。
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「あ、冬獅郎!」
そう言って笑顔で手を振るのは、オレンジ頭の。寝間着姿でベッドの上に膝立ち、窓から身を乗り出して手を振っている。現世に来るのは久し振りだが、彼女は以前より小さくなった気がする。身体も、生命力も。
黒崎家の屋根に降りると、の部屋窓に近づく。
「お前、いつも外見てるのか?」
「うん、いつ冬獅郎来てくれるかなって思って、寝るまでは毎日見てるよ」
そう言って微笑む彼女。まるで母鳥の帰りを待つ雛のようで、愛らしいと感じた。だがそんな可愛らしさとは対照的に、彼女の顔色はあまり良くないことに気付く。頬にそっと手を寄せるとは一瞬驚いたが、冬獅郎の手ぇあったかいね、と言う。俺は逆に彼女の頬の冷たさに驚いた。季節ももう秋になり、夜な夜な窓辺でいつ来るかもわからない自分を待つのは、身体の弱っている彼女に響くだろう。俺は隊主羽織を脱ぎ、頭から被せた。
「待つのはいいが、ちゃんと暖かくしろ」
「うん、ありがとう」
羽織の間から見えた彼女の表情はとても柔らかくて、先ほどまでの疲れが癒されたいのを感じた。そしていそいそと羽織を自らの肩にかける姿を見ながら、こちらに来るのが分かるようにした方が良いかもしれないな…と考える。そして促されるように通い慣れたの部屋へ足を踏み入れようとした、その時。
「たいちょー、無事に完了しましたー!」
「?!」
「…でかい声を出すな、松本」
後ろから声がして、ため息をつく。そうだ、今日は松本が一緒に来ていたのを忘れていた。降り立ったと同時に偶然の家とは逆方向に虚が現れるのを知り、松本が討伐を買って出てくれていた。は目をまん丸にしながら、俺の後ろに突如現れたやつを見ている。松本は俺の隣に立つと、に目線を合わせて笑顔を浮かべた。
「松本乱菊よ。ヨロシクね、!」
乱菊って呼んで!と言いながら、の頭をくしゃっと撫でた。は撫でられた頭に手を添え、乱菊さん…?と小さな声で漏らた。だが頭に沢山の「?」を浮かべた様子なのは見て取れる。きっと何事かと思っているのだろうが、松本が「現世行くんですよね?ついていっていいですか?っていうかついて行きますね!ご褒美です、頑張った私へのご褒美!」といって聞かなくついて来た結果である。これを説明するのも面倒なので、俺は悪いと目で伝えた。そんな俺の様子には瞬きを数回して小さく頷くと、松本の方へと視線を動かした。
「く、黒崎です」
「知ってるわよ、!もうね、隊長が何度もって…」
「言ってねーよ!」
あることないこと言いやがって!これだから連れて来たくなかったんだ!俺は渾身の力を込めて小突いた。松本は何すんですか!と抗議して来たが、松本が悪いのだから仕方がない。その様子をはじっと見ていたが、小首を傾げて尋ねて来た。
「隊長?冬獅郎、隊長なの?」
その言葉に松本は反応し、言ってなかったんですか?と聞いて来た。別に今まで死神について深く話す機会もなかったし、言いたくなくて言っていなかったわけではない。俺は小さく頷いた。すると松本は俺の両肩に手を置き、前にずいと押し出した。
「そうよー、この人は我が十番隊の頼れる隊長よ!そして私が隊長をばっちり支える副隊長!」
「サボリ魔の副隊長の間違いだろ」
「失礼ですねー!」
「隊長…冬獅郎、えらい人だったんだ!」
そっかー、凄いね!カッコいいね!と満面の笑顔を向けてくる。その様子に顔が少し赤くなるのを感じ、を直視できずに視線を逸らした。そして「乱菊さんも死神なんですね。女性の方もいらっしゃるんですね!」と松本を見上げ、また微笑んだ。松本はその笑顔にやられたのかに勢いよく近づき、そのままぎゅっと抱きしめていた。
「ら、乱菊さんっ?!」
「何この可愛い生き物ーっ!隊長、この子私が貰っていいですか?!」
「何言ってんだお前は」
「く、くるしいです!」
松本はものの数分でを気に入ったらしい。自分の胸元で苦しむ彼女を気遣い少し緩めると、自分の腕にある彼女の青白くて華奢な腕にある千歳緑に気付き、に尋ねた。
「あら、その腕の紐…」
「あ、これは冬獅郎から貰った強靭なお守りです!」
そう言って自慢気に松本に見せる。普段は髪留めにしてるんですが、夜は束ねないので腕に…という彼女に、先日隊主羽織を破いた理由をやっと知れた松本は、ニヤニヤしながら俺を見て来た。そして「よかったわねー、大事にしなさいね」との頭を撫でていた。俺は後でこの件についていろいろ言われるだろう…と腹を括った。
松本と二人で彼女の部屋に入り、はベッドに入らせた。体調が気になるので本当はすぐにでも寝かせたかったが、は俺たちが来たのに寝たくない!話したい!と頬を膨らませて拗ねたため、隊主羽織を肩にはおり、身体は起こして壁に身体を預けている。俺はベッド脇の椅子に、松本はベッドに腰掛ける。
松本とは女性同士ということで意気投合したのか、現世や尸魂界の話をしていた。今までそれほど話していなかったので、は尸魂界に興味津々のようだ。
それぞれの世界での人気の甘味の話になった時、突然松本がそうでした!と声を出した。そして袂から何かを出すと、一緒に食べましょ!と言う。それは先程執務室前で会った時に松本が買って来たと言っていた袋。中を開くと以前雛森が尸魂界で人気だと言っていた、クリームたっぷりの甘味が並んでいた。
「にお土産をと思って買って来たのよー!」
「わあっ、ありがとうございます!」
美味しそうですねー!との目も輝いているのがわかる。彼女も世の女性と同じように甘いものが好きなようだ。はベッドからすごい速さで抜け出すと、机に駆け付ける。そして二人はウキウキと甘味を出し、同時に勢いよく齧り付き、また同時に今度はプルプルと震えだした。
「「ん〜…美味しいー!!」」
何ですかこれ?!すっごい美味しいんですけど!というと、そうでしょー!これ今尸魂界で一番人気なのよ!と返す松本。その様子を騒がしい奴らだなぁ…と傍目で見ていた。再びかじろうと口を開けるの姿を見ていたのに気付いたのか、は口を閉じ俺の方に甘味を向けて来た。
「冬獅郎も食べる?」
「隊長の分もありますよ?」
「いらねー。お前らで食え」
甘いものは苦手だ。よくこんな見るからに甘ったるそうなもの食えるなと感心する。これ嫌いなの?というに、松本は俺が甘いもの全般が好きではないと伝えた。はにやっと笑いながら好き嫌いなんてお子ちゃまだね!と言うと、またその甘い塊に齧り付き、栗鼠のようにもごもごと本当に美味しそうに頬張っている。頬にまでクリームが付いているが、当の本人は気付いていない。お子様はどっちだ。
「ついてるぞ」
腕を伸ばし甘味で膨らんだの頬についたそれを、俺はごく普通に指ですくい取った。そしてそのまま自らの口へ入れる。
「「?!」」
「甘ぇ…」
予想以上の甘さに、思わず眉間にシワがよる。一気に胃がもたれる気がした。何度でも言おう。よくこんなの食えるな、こいつら。それにこんな甘いものを頬張って頬につけるとか…
「小さい餓鬼か、お前は」
「と、冬獅郎に言われたくない!」
子供扱いに照れたのか、一気に顔に色が差した。そしてジロリと見て来た。そんな様子に俺は小さく笑うと、も睨んでいた顔を保ちきれず、柔らかく微笑んだ。月明かりの下に照らし出されたの瞳は、すごく輝いて見えた。
【十月】矢筈葛 〜美しい瞳〜
(隊長って天然のタラシですか?)
(は?)
(無自覚って一番怖いですよねー)
(何言ってんだ、お前…)
(それにしても、可愛いですね!気に入っちゃいました!私もこれから会いにきますね!)
(…頼むからやめてくれ)