
辺り一面うっすらと雪色に染まる頃。波乱だらけの調査を終え、久し振りに執務室の扉を開いた。離れている間隊を纏めてくれていた、信頼できる副官は不在のようだ。ふと自席に目をやれば書類はさほど溜まっておらず、隊長印が必要なものだけのように感じられた。その紙に目を通そうと歩み寄るが、疲れから目の前にあるソファに突っ伏した。
報告書を今日中に提出した方が良いのは頭では理解している…が、どうにもこうにも身体が動かない。大きくため息をつくと、そのまま眠りに落ちてしまいそうだった。
「あ、たいちょー!お疲れ様でした!」
扉が開く音と同時に声がして、静かだった執務室が騒がしくなる。俺はそのままの体制で手を挙げて返事した。松本がひと月じゃ終わりませんでしたねー、と言うのでその流れで任務中の愚痴でも零しそうになったが、まずは不在中の様子を把握しようと思いギリギリのところで飲み込んだ。そう、ひと月では終わらず、予定より10日ほど延びての帰還になっていた。
「不在中に問題は?」
「特にありませんでしたよ!机の上の書類も隊長印の必要な物のみ残ってる状態です」
「そうか、助かった」
「あ、でも…」
松本は言葉を切る。そして小さな声での容体があまり良くないと悲しげに言った。本当は中期任務出発日に様子を見に行く予定だった少女。当初はただ何となくその霊力の高さから虚に狙われるのではと気に掛けていただけのなのに、気付けば何度も会いに行く間柄になっていたオレンジ髪。そしてこの中期任務中もずっと気になっていた存在。そんな彼女は以前聞いた時は年を越せるかどうか、という話だった。今はもう年の瀬。体力もかなり限界に近いであろう。
「そうか」
「あ、でも隊長からのプレゼント、すごく喜んでましたよ!隊長から貰ったお金全部遣って買ったもので、私だけにあんな柔らかく微笑んでくれて、あの顔を見られなかった隊長がすごく不憫に感じました!むしろタダであんな笑顔を見れた私はラッキーなんじゃないかと!」
「…いろいろ喧嘩売ってんのか、お前」
預けたのは菓子を買うには充分すぎるほどの金額だったはず。それを全部使うヤツがあるか、莫迦野郎…。でもそれでが喜んでくれたのならば、まぁいいか…そう思える辺り俺も疲れてるのかと感じた。
「ところで隊長。お疲れのところ申し訳ないんですけど、今晩はおヒマですか?」
「…いや、現世に行ってくる」
「!!さすが隊長、わかってますね!早速連絡してきますね!」
今言おうとしてたこと言ってくれるんだからー!と嬉しそうに言うと、松本は地獄蝶を飛ばしに執務室を離れていった。
********
「シロちゃーん!」
松本が居ない間に彼女の残していた書類を確認していると、聞きなれた声がしたと同時に扉が開く。現れたのは案の定、幼馴染の少女だ。
「日番谷隊長だ」
「んもう、私にとってシロちゃんは、いつまでもシロちゃんなの!」
そう言って頬を膨らます雛森。隊長がこんな呼び方されたら威厳なんかあったもんじゃない。そう言うのに一向に直す気のない彼女は、かなり頑固だと思う。何の用だと聞けば、帰ったことを耳にしたから顔を見に来たと言う。俺は彼女がここに来るのは今に始まった事ではないし、そうか…とだけ返してまた目の前の書類に視線を戻した。雛森はにこにこしながらソファに座っていた。
「たいちょー!今回はスペシャルなことがありま…」
雛森が座った直後、ガラッという勢いの良い音がして扉が開くと同時に、言葉を止めた松本。その様子は雛森がいることに驚いたようだ。松本は瞬きしながら雛森を凝視している。雛森は笑顔を浮かべて松本を迎えた。
「お帰りなさい、乱菊さん!」
「い、いらっしゃい、雛森」
「…で?お前は何がスペシャルだって?」
「えーっと…」
いつも寄り道をする彼女にしてはだいぶ早い。何か彼女にとって良いことがあって、それを伝えるなり自慢なりをしたいがために、真っ直ぐ帰ってきたと推測できた。しかし松本はちらりと雛森に視線をやると、何やら少し考える。そして「んー…後ででいいです、多分…」と言葉を切り、そのまま給湯室へ向かって行った。いつも言いたい事はズバズバと発言する彼女にしては珍しい言い淀みに、俺も雛森も頭を傾げた。
しばらくするとお盆を持った松本が戻ってくる。皿にはいくつか甘味も乗っているようだ。目の前の机に置くと、雛森は可愛い菓子だと喜んでいた。それを見て、松本が今度は少し困ったような表情をした気がした。気のせいかも知れないが。何なんだ、一体。副官席に座る松本の様子を気にしつつ、茶を啜りながら書類仕事を行う。早く片付けて報告書も提出しなければ、現世に行く時間も遅くなる…。
書類に視線を落としていると、視界に影がさす。
「ね、シロちゃん」
「日番谷隊ちょ…」
「はい!お誕生日おめでとう!」
雛森のその言葉と同時に書類の上に突如置かれた大きめの袋。あー…今日か。今年もすっかり忘れていた。と言うか、このところ忙しく、正直日付の感覚もなく過ごしていた。
「まさか今年も忘れてたの?」
毎年私が知らせてあげないと、ほんとダメなんだから!と頬を膨らます雛森。小言を言う彼女を横目に袋を開けると、中には暖かそうなマフラーが入っていた。
「むしろ毎年よく覚えてるな」
「そりゃ大切なシロちゃんの日だもん!」
「…これ、ありがとな」
「どういたしまして!使ってね!」
「あぁ」
雛森はニコニコしながら、それで今日の夜は何処に食べに行く?と聞いてきたので断ろうとしたその時、一羽の蝶が何処からか飛んできた。松本の「あっ…今は…!」という声と同時に、俺の指に止まる。地獄蝶かと思ったが、よく見ると羽根にオレンジ色の模様があり、異なる種類のようだ。その蝶と先程からの松本の不思議な行動に不審に思っていると、指先から聞こえてきた声に驚く。
《お疲れさま、冬獅郎。今日の夜、来てね!絶対だよ!》
それはずっと気に掛けていた少女の声。久しぶりに聞く彼女の声は以前ほどの覇気はないが、まだ話す元気があることにホッとした。姿は見えずとも、声を聞くだけであのオレンジ色の髪と柔らかな笑顔が思い浮かぶ。俺は無意識に笑みを浮かべていた。
指先に留まっていた蝶は少女の声を届け終えると、一瞬にしてただの蝶形の紙きれになった。どういう理屈なのかよくはわからないが、恐らくこの蝶こそ先程松本が言い止めた「スペシャルなこと」に間違いないだろう。俺がこのひと月以上もの間ずっと気になっていた存在を、一番理解していてくれた松本は本当によく出来た副官だ。
「松本」
「は、はい」
「お前、すげぇな」
「はい!誕生日プレゼントです!」
おめでとうございます、と満面な笑みを浮かべていた。そして、この蝶を手に入れるの大変だったんですよ?と自慢気に話し始めた様子を、雛森が浮かない表情で見ていたことに、俺は気付かなかった。
********
「冬獅郎っ!」
目的地まであと数歩というところで、部屋の主は窓を勢いよく開けた。腕に付いた点滴が衝撃でゆらゆら揺れるのが見える。俺がゆっくり近付くとは窓から少し離れ、慣れた手つきで部屋に入るよう促した。
「そんな騒ぐと、針抜けるぞ」
「いーよ、むしろ抜きたい!抜けて欲しい!」
「相変わらず莫迦だな、お前は」
そう言って笑うと、はにこにこしながら、おかえり冬獅郎!と言ってくれた。俺はただいまと言うと、いつも通り隊主羽織をに被せた。羽織の隙間から見る一華の表情は嬉しそうで、とても可愛らしかった。
部屋に入ると机に散らばる薬の量も、点滴の種類も増えていることに気付いた。目の前でこの間のお菓子ありがとーとか、今日乱菊さんは?とか、ごく普通の会話をする彼女。青白い顔に笑顔を浮かべながら話す彼女を見ながら、最後に顔色の良いを見たのはいつだろうかと思った。
彼女の肉体は確実に終わりに近づいている。それは彼女が大好きだという家族と別れることを意味している。そして彼女が流魂街に行くということは、生前の記憶を全て無くすということ。家族のことも、俺のこともすべて…。そんなことは最初から理解していたし、忘れることは当たり前だし、この決まりに特別な感情を持ち合わせていなかった。けれどいざ彼女と過ごしたこの数ヶ月を忘れられると思うと、何故だか胸の奥が少し痛む。俺は胸をぎゅっと押さえた。
そんな俺の想いを知ってか知らずか、は冬獅郎、と優しく呼びかけた。目の前にいる彼女とあと何度、こんなありふれた会話が出来るだろうか。あと何度、その声で俺の名を呼んでくれるだろうか。
「…ん?」
「冬獅郎、お誕生日おめでとう」
はい、どーぞ!と小さな袋を手渡す。今日が誕生日だと彼女が知っていたことに驚いた。
「知ってたのか」
「うん、乱菊さんに教えて貰ったの!」
だから今日どーしても来てもらいたかったんだ!とにこにこ話す。松本からの贈り物はあの蝶だけでは無かったということか。今日は行かないでおくと言ってついて来なかった、信頼している副官の満面の笑みが目に浮かんだ。
「あとね、このプレゼントには今までのお礼の気持ちも沢山込めてみたの」
「礼?」
「そう」
【いつも気に掛けてくれて、ありがとう】
【シロ助けてくれて、ありがとう】
【お守りくれて、ありがとう】
【お菓子もたくさん、ありがとう】
【友達になってくれて、ありがとう】
だから、受け取ってくれる?と柔らかい笑顔を向ける。俺は彼女の伝えてくれた言葉の一つ一つが胸に響いて、喉がツンとする。本当は伝えたいことがあるはずなのに、俺は小さく頷くことしか出来なかった。俺のその頷きを是と取ったはよかった、と小さく呟く。そして開けてみて、と囁いた。
「これ…」
「アンクレット。腕だと邪魔かなーって思って、足に着けられるようにしたの」
受け取った小さな袋に入っていたのは、革紐に翡翠色の石が付いたシンプルなデザインの装飾品。普段から飾り物は身につけない上に、確かに腕だと斬魄刀を振るう際に揺れて、気になるだろう。刀なんか使ったこともないだろうに、いろいろ考えてくれたことに心が暖かくなった。
彼女は俺の手の中にあるアンクレットをそっと手に取ると、足出して、と言う。俺は言われるがまま腰掛けていたベットに足を乗せる。すると少しだけ裾をあげ、左足に宛てた。石が直接足に触れると、そこからの霊力を感じた。
「お前、ここに…」
「うん、私の霊力ほんの少しだけ入れたの」
私の霊力は癒す効果があるみたいだから、入れてみたら?って乱菊さんが…と微笑んだ。確かに彼女の体力と生命力とは相反して、今現在も有り余るほどある霊力はとても暖かく、癒される。実際、俺の羽織を破り渡すまでは、それを狙う虚も多かった。
は俺の左足首に結び終わると、満足そうに似合う、と頷いた。そして真っ直ぐに俺を見て言った。
「冬獅郎、知ってた?アンクレットには【心身を守る】って言う意味があるんだよ」
「そうか」
「しばらくは、この子が私の代わりに冬獅郎を守るからね」
「…は?」
しばらくは?守る?何の話をしているのか理解できず、彼女を見る。彼女の大きな瞳には俺が映っているのがわかった。
「私、知ってるの」
「なにを?」
「死んだらさ…記憶、無くなっちゃうんでしょ?」
乱菊さんに聞いたの、と悲しげな顔で微笑む。その表情を見て、アイツはそんな話までしてたのか、と舌打ちした。死んだらではなく正確には流魂街へ行ったら、だが、そのことを俺からは言うつもりは無かったし、教える気もなかった。その方が今を大切に思う彼女にとって良いと思ったから。記憶がなくなるという悲しい事実を受け止めるのは、記憶が残る側…つまり俺たちだけでいいと思っていたから。
俺は彼女の方が見れず俯いてしまった。すると力の抜けていた手に、熱のせいで体温の高い、俺の手よりほんの少し小さくて華奢な手がそっと重なる。そして顔を覗き込んできた。その表情は先ほどまでの悲しそうなものではなく、微笑んでいた。
「でも、もし記憶無くなっちゃったとしても、私きっと冬獅郎の側に行くよ」
「え?」
「今まで沢山いろんなものを貰った分、今度は私が冬獅郎の役に立ちたいの。絶対冬獅郎のそばに行って、今度は私が守…っ!!」
視界に広がるのは、ずっと気にかけていたオレンジ色。腕に感じるのは、暖かくて柔らかくて小さな身体。
「冬獅郎…どうしたの?」
「…」
命が尽きる人間は、毎日数え切れないほど存在する。彼らは自分たち死神の手で、この世から離れる。そしてランダムに振り分けられ、記憶のない状態で流魂街で新たな人生を始める。現世の記憶を持ったままいるヤツの話なんか、聞いたことがない。だから彼女のこの約束も、きっと叶わないものになるだろう。そんなことはわかってる。
でも、どうか彼女の記憶だけは消えないでほしい。忘れないでほしい。なぜそう思うのかわからない。けれど自分勝手な考えだとわかっていても、どうかこいつだけは…と願わずにはいられない。
ギュッときつく抱きしめていると、はそっと抱きしめ返してくれた。そして背中を優しく、一定のリズムで叩く。まるで泣いている小さな子供をあやすかのようなその動作に、俺の視界はさらに滲んで行った。
そっと離れて俺の顔を見る。そして『記憶がなくてもまた友達になってね』と腕の中で笑う彼女を、とても愛しく感じた。
【十二月】西洋木蔦 〜永遠の愛〜
(そっちのオレンジの石のヤツは…?)
(へへっ!実は私も自分に作ったの。お揃い!)
(…そうか)
(冬獅郎、なんか顔赤くない?大丈夫?)
(…)